ここ数日、「自殺」について色々と真剣に考えておりました。石垣です。
誤解なきように申し上げますが、僕が自殺したい!というわけではございません。
自殺のあり方というか、追い詰められたときの選択肢として自殺というのはどうなのかなあ…と、考えていたのです。
まず大前提として「なぜ自殺するのか」。
詳細はケースバイケースでしょうけれども、その根源を大ざっぱに言えば「死んだ方がマシだから」でしょう。
では、本当に「死んだ方がマシ」なのでしょうか。
現世の状況は人それぞれですし、死後の世界は各々の宗教観に依る部分が大きいので何とも申し上げ難いのですが、「死後の世界」がどんなものか、メジャーなところで考えてみますと…
「天国」
そもそも「自殺者は天国に行けない」という説が多いので、華麗な天国デビューは難しいかもしれません。
仮に行けたとしても、全うな扱いを受けられるかどうか疑問でございます。
天寿を全うした方はもちろん非業の死や名誉の戦死など諸々を含め、世の中の一般市民の大多数は天国に向かわれるでしょう。
辛い事も悲しい事も全部受け入れて、死ぬまで懸命に生きた人たちの行き着く先。そんな聖人のたまり場で、現世の不都合から逃げるように転がり込んで来た者が同等に扱ってもらえるのでしょうか。
死後にまで「自殺は"逃げ"」なんて言われて、落伍者として過ごす事になるのではないでしょうか…。
「地獄」
これは論外でございます。大昔の方々が考えた、無間地獄の百万那由他でございます。
地球の人口増加により死者の絶対数も増えておりますから、地獄もハイテク化が進んでおりましょう。
賽の川原で積み上がりそうになった石をセンサーで感知して崩す機械や、針地獄に刺さった人を自動で取り外す機械が出来ているに違いありません。
血の池地獄も低コストの赤い水とかで代用されているでしょうし、ボタンひとつで標準的な鬼と同等の力で殴れるケツバットマシンに順番待ちしたり…効率化された無機質な苦痛が待っているはずです。
「転生」
まず天国に行かないと輪廻の輪に入れないですとか、罪人や自殺者は人間に生まれ変われない、などの説がございまして…
「お坊様に高いお金を払わないと、来世は畜生に転生する」なんてアコギな話もございますので、「転生」というシステム自体が、あまり真剣に期待してはいけないもののような気が致します。
「無」
死後は無であり、霊とか死後の世界とかそんなのは無いよ、という説。
これは一番無難というか妥協点としては一番良さそうに思えますけれども、ちょっと難しいかもしれません。
霊魂の存在は大昔から語られています。古代エジプトではミイラを作り死者の復活に備え、古代ギリシャではプラトンが霊魂不滅説を唱えました。「埋葬」や「供物」といった行為はクロマニヨン人の時代から存在します。
霊魂や死後の世界を信じ畏れる心は、宗教や言語よりも昔から存在するのです。
加えて、世界各地において多数報告されている「心霊現象」を考えれば…まず「死んだら無」という展開自体が怪しいように思えます。
以上の考察から、「死んだ方がマシ」という理由で自殺しても結局「生きてた方がマシ」な死後になってしまう可能性が高く、少なくとも現代社会においての「追い詰められた時の自殺」は、最善の選択とは言えない…と、僕は結論付けました。
…ただ、精神的に追い詰められた状態では死んだ後の事まで考える余裕など無いのが普通でございます。
「自殺するぐらいなら、死ぬ気で生きればいい」という根性論がございます。
それは自分を奮い立たせるために使う分には素晴らしい名言なのですけれども、自殺志願者にかけるにはあまりに淡白で的外れな言葉のように思います。
「命をかけて何かを成し遂げる」のと「死そのものを望む」のは、そもそもまったく違う事です。
言うなれば、自殺志願者はそもそも「命がけで」死のうとしているわけですから…説き伏せて矛先を逸らすには足りません。
また、「自殺は"逃げ"である」という言葉もございます。
全く以ってその言葉の通り。自殺志願者は「命をかけて逃げ出そうとしている」のです。
一般的な倫理観念を突きつけたって、三十六計逃げるに如かずでございます。
万策尽きて自決を決め込んだ人間を助けたいなら、身を削って奇策を提示するしかないのです。
未然に防げたのであればともかく、一人の人間が命を懸けて決めた選択を、後から出て来てどうだこうだと言うのは野暮でございます。
何だか頭が混乱してまいりましたが、申し上げる言葉はレストインピースのみでございます。